芝浦工業大学「増穂だより 183 号」(巻頭言)

大 坪指方先生との出会い  菅沢 茂


卑 近な例とし て、私の出会いを語りたいと思う。

大 坪先生は明 治39年生まれ、本名は元治という。家業の彫刻より史学に移り、 東洋大学を卒 業後昭和8年に海軍省に入り、終戦まで海上護衛総司令部にい た。戦後、奈良芳 徳寺橋本定芳老師に協力し、柳生正木坂剣禅道場を創建して師範となる。東京教育大学で武道学科の講師もしていた。著書には、『眼鏡の 歴史』『福井県眼鏡史』『あるく鎌倉』をはじめ、小栗上野介を中心とする明治維新史、日本古武道史、眼鏡史関係がある。山岡荘八の 『徳川家康』執筆の折には、15年間にわたり史料を提供した。

そ のお宅は鎌 倉の材木座にあった。屋根のトタン板はすっかり錆び、シロアリに喰われて今にも倒れそうな門柱にはマジックで「大坪」とのみ記されて いた。昔年新陰流の柳生厳周から人となりを見込まれ、後年柳生厳長から伝書を託された。伝書の添書には「お子さんに伝えてほしい」と あったが、子らその才にあらずと伝えなかった。

先 生の書斎は 入り口から中ほどまで若干の空間を除き、何列にも本がうずたかく横積みされており、その中でいつもニコニコと笑っていた。食堂のテー ブルの周りも、到る所本だらけであった。「嫌いな作家の本でも必ず一冊は読みなさい」と諭されたことを思い出す。木刀が数本片隅に そっけなく立て掛けられていたのを見て、至芸の名人かくのごときかと感動した。多年、臨済禅の修業にも打ち込まれ、自己に厳しい枯淡 の人であった。

理 もわけも尽 くしてあとは円明を

知 らぬむかし の無一物なり

あ る日大坪先 生が講話で紹介したこの歌は、宮本武蔵晩年の作という。きっと先生の意にかなうものがあったのだろう。

大 坪先生の手 首は細く、幾度かご自分の人差し指と親指で掴んで見せてくれたことがある。幼い頃に蒲柳の質であったのをご両親が心配し、6歳のときから自宅近くの新陰流 の道場に通わせた。

「今 日から柳 生の子になったのだから、人さまの頭を叩こうなんどの了見は捨てなさい」と老師に諭され、「何千何万回振っても、ぴたりとここに止ま るように振るのです

と 稽古が始 まったという。

 当時、80歳 であった大坪先生の素振りは一級至上の芸術品で、ヒュンヒュンと柳の枝で打つごとく、しなるごとくに水車の勢で打ち込んだ。その形に 見とれたものである。しかも、それに伴う足遣いが妙であった。トントンと踏みながら、トンで切り、またトンで切る。一足ごとに切り込 んでいる、その滑らかな動きこそ柳生伝来の西江水の捌きであると確信する。お能のごとく、親指がヒョイと上がるとスイと動く。

 動きながら トントンと床を打ち、打つ瞬間に切っ先が切り込 まれて敵の眼前に止まっているのである。確かに、頭を叩いてしまっては万事休す。人を殺めるのではなく、ひとを生かす兵法が新陰流の 極意であろう。大坪先生が繰り返し後進に説き聞かせていたお話しの寓意こそ、この一点に尽きると思う。

先 生から学ん だ教えは、3年半という短期間にいただいた言葉と形と心である。 大坪先生は幾 度か「あなたの体を借りますよ。」と笑いながらおっしゃった。私はお貸しするに足る人格となるよう自戒しつつ、教外別伝の秘訣を会得 したいと念じた。その秘訣を会津旅行で若干銘記したように思う。

昭 和59年の秋、新幹線三人掛けの窓際に大坪先生、真中に先師鶴山晃瑞、通路側 に私が座っ ていた。先師は現代合気道のルーツ、大東流柔術の継承過程を検証するのだといって、紙縒りで綴った便箋の束を見せてくれた。それは武 田時宗師から先師あてに送られた返信で、薄い和紙の便箋に太字の青インクで丁寧に書かれていた。

柔 術一ヶ条は じめの技を、居捕では「一本捕」立合では「坂落」と名付けたが、その後一本捕に統一したという箇所を今でも覚えている。武田惣角翁の 伝えた大東流の技には名前がなかったのである。このことを先師も語っておられたし、教伝においては技法名にこだわることもなかった。

「京 都老舗の 和菓子屋の子供は、菓子の善し悪しが一目で判るといいます。」と大坪先生は語った。「皆さんもここで本物の技を学んで、ものの真贋を 見分けられるようになってください。技は忘れてよいのです。技を覚え込もうと技にこだわってはなりません。我知らずのうちに自然と体 が動けばよいのです。」といって、小太刀による突きを避ける、その避け方を学んだことを思い出す。こだわりやてらいが禁物である。

形 は名によっ てイメージとなる。形のない実戦技法すなわち瞬間自在に変化する臨機応変の大東流柔術も、技に名が付けられた一瞬から「形」が「型」 となって土塊となってしまう。

新 幹線福島駅 前から両師を案内し、レンタカーで神社に向かった。ここは明治31年、 惣角翁 が数ヶ月間滞在し、旧会津藩国家老の西郷頼母(改名後は保科近悳)から会津藩御流儀の秘伝「合気の拍子」を学 んだ所であり、北畠親房が籠って神皇正統記をまとめた場所でもあるという。神社に分離 されてから三代目の宮司頼母が生活していたという社務所が、かろうじてまだ利用されていた。ここから福島市内を抜けて土湯峠で休憩を 取り、レークラインから磐梯山北面の宿に着いたのは夜九時を過ぎていた。

翌 朝、峠直下 にある大きな土饅頭を目指した。当時発見されたばかりの集合墓で、戦争の折に西軍板垣隊本体と東軍幕府伝習隊が戦った悲惨な跡であ る。次に、初代藩主保科正之が眠る土津神社(旧亀ヶ城)の 山腹から、遠く会津鶴ヶ城の方面を眺めた。この間朝から深夜に至るまで、柳生新陰の道統、南北朝史、会津藩主の家系や徳川幕府の政策 など、大坪先生のお話は連綿と続いたものである。さらに喜多方の熱塩寺、御池田の西光寺、勢至内峠の古戦場など長途の旅が続けられ た。

あ の時聞いて おけばよかったと思うことが、山ほどある。



○その後の事

菅沢茂と申し ます。

2011年3月10日 木曜日 午後1:35

From: "sugasawa shigeru" <xxx@xxx.co.jp>

To: xxx@txxx.ne.jpメー ルに添付ファイルが含まれています増穂だより183号 巻頭言(大坪指方先生との出会い.docx (20KB)

東善寺 ご住 職

村上泰賢 様

 

 はじめまし て、菅沢茂と申します。以前、東善寺のHPを拝見した折に、大坪治子氏が写真に写っておりました。いまでも大坪家と ご縁がおありでしょうか。私は以前、大東流柔術の先師鶴山晃瑞に習っておりました時に、毎月大坪指方先生のご講話を聴いておりまし た。現在、芝浦工業大学柏中学高等学校の校長をしておりますが、広報誌増穂だより183号 巻頭言に「大坪指方先生との出会い」を載せました。添付しますので、何かの折、大坪治子氏とお会いになるようなことがございました ら、お伝えくだされば幸甚です。材木座から転居された後、ご連絡先が分かりませんので、よろしくお願い申し上げます。


ファイル

増穂だより183号巻頭言(大坪指方先生との出会い.docx(20KB)

 

RE: 菅沢茂と申します。

2011年3月11日 金曜日 午後4:46

From: "sugasawa shigeru" <xxx@xxx.co.jp>

To: "Taiken Murakami" <xxx@xxx.ne.jp>

 

村上泰賢様

 

 さっそく、 ご返信くださりありがとう存じます。治子氏にご連絡くだされば幸甚です。私も大坪先生から穂積氏と共著の『小栗上野 介伝』をお借りして拝読しました。東善寺 にも一度伺ったことがあり、患者の一人です。HPで拝見したご住職のご 本、今 度楽しみに読ませていただきます。千葉県ではまだ余震が続いておりますが、ご無事を祈念しております。とりいそぎ御礼まで申し上げま す。菅沢茂

 

東善寺泰賢和 尚よりのご連絡

2011年4月1日 金曜日 午後2:27

From: "Haruko Otsubo" <xxx@xxx.ne.jp>

To: xxx@xxx.co.jp

菅沢茂様

 

思いもかけず 泰賢和尚よりのメールと父の文章を拝見いたしました。

どの場面も懐 かしく、20年もの歳月が一瞬にして過去に戻りました。

 

父が日ごろ子 供達に話していたこと、剣と足のさばき・・・・・などなど、いろいろ思い出しました。また、旅に出ると話題が尽き ず、何時も私は「もう終わり。疲れるから一休みしたら・・・」と止め役でした。

 

あれから月日 がたち、父がなくなってからいろいろありましたが、やっと少し落ち着いてきましたら、病に冒され療養中で御座いま す。

 

菅沢様が、倒 れてからの父のお見舞いに鶴山様と鎌倉にお見えになり、指圧?をなさるとお話をされていたのを覚えております。その 鶴山師も彼岸の人となり感無量で御座います。

 

最後になりま すが、先生の文章を拝読し、父の考えがこれからの若い人々に先生を通して伝わって行くのを拝見しながら、心温まる思 いが致しました。

どうぞ今後と も先生の御活躍をお祈りいたします。

 大 坪治子

 

Re: 東善寺泰賢和尚よりのご連絡 菅沢茂

2011年4月1日 金曜日 午後11:54

From: "sugasawa shigeru" <xxx@xxx.co.jp>

To: "Haruko Otsubo" <xxx@xxx.ne.jp>

 

大坪治子様、 菅沢茂です。

 早速、ご連 絡くださり御礼申し上げます。メールにて失礼いたします。今どちらにご療養中でしょうか。大坪指方先生とのお約束の 一端で数年前に本を書いておりますので、お持ちしたいと存じます。また、材木座から転居なされてからご連絡が取れず、お墓参りにも行 けずにずっと残念に思い、恐縮しておりました。先生の菩提寺はどちらかもお教えいただきたいと存じます。私の武道名は「恒元」と申し ますが、大坪先生からお名前の一字をいただいたものです。先日思い立って、東善寺のご住職にメールを差し上げて本当に幸運でした。ご 連絡をお待ちしております。治子様の速やかなご快癒を祈念申し上げます。